やらせのヒーローの"活躍"を描く「戦隊大失格」が問いかける、物語に"悪役"が必要な理由 | アニメ!アニメ!

やらせのヒーローの"活躍"を描く「戦隊大失格」が問いかける、物語に"悪役"が必要な理由

敵キャラにスポットを当てる「敵キャラ列伝」第45弾は、『戦隊大失格』の戦闘員Dの魅力に迫ります。

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TVアニメ『戦隊大失格』キービジュアル(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会
  • TVアニメ『戦隊大失格』キービジュアル(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会
  • 『戦隊大失格』第1話「俺たち正義さ! 竜神戦隊ドラゴンキーパー!」先行場面カット
  • 『戦隊大失格』第1話「俺たち正義さ! 竜神戦隊ドラゴンキーパー!」先行場面カット
  • 『戦隊大失格』第1話「俺たち正義さ! 竜神戦隊ドラゴンキーパー!」先行場面カット
  • 『戦隊大失格』第2話「進め! 戦闘員D!」先行場面カット(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会
  • 『戦隊大失格』第2話「進め! 戦闘員D!」先行場面カット(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会
  • 『戦隊大失格』PVカット(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会
  • 『戦隊大失格』PVカット(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会
    アニメやマンガ作品において、キャラクター人気や話題は、主人公サイドやヒーローに偏りがち。でも、「光」が明るく輝いて見えるのは「影」の存在があってこそ。
    敵キャラにスポットを当てる「敵キャラ列伝 ~彼らの美学はどこにある?」第45弾は、『戦隊大失格』の戦闘員Dの魅力に迫ります。

4月から放送開始された、春場ねぎの同名マンガをアニメ化した『戦隊大失格』は、「敵役」が主人公の作品だ。したがって当連載にとっては避けて通れない作品である。

本作の主人公は、戦闘員D。この世界では、正義の戦隊チームと悪の怪人組織が毎週戦いを繰り広げているが、それらはすべてやらせの茶番劇。戦闘員たちは、毎週日曜日にやられ役として戦隊ヒーローたちに吹き飛ばされる日々を送っているが、そんな毎日に嫌気が差した戦闘員Dはたった一人反旗を翻し、お約束を破ってヒーローたちに立ち向かう。

悪役にされてしまった者の悲哀、そして、常に暴力で物事を解決する正義のヒーロー側の欺瞞(ぎまん)を暴き立てるこの作品は、物語に敵役が必要な理由について鋭い洞察を示している異色の作品だ。

■悪役をやらされ、やさぐれる戦闘員…

竜神戦隊ドラゴンキーパー(大戦隊)は、13年間、悪の怪人一味と毎週日曜日に戦闘を繰り広げ、地球の平和を守っている。怪人たちは地球の外からやってきた侵略者だ。凶悪な侵略者たちから地球を守るヒーローたちの姿に人々は喝采を送っている。

しかし、実は怪人一味の組織は最初の1年でヒーローたちに崩壊させられており、幹部は全滅。残ったのは名もなき戦闘員たちだけ。そんな戦闘員たちは、「毎週日曜日に侵攻を続ける、ただし一般市民にやらせと悟られないように」という休戦協定を結ばされてしまう。そうして、戦闘員たちは毎週やられ続ける日々を送っているのだ。

(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会

そんなやられ役に甘んじることをよしとしない戦闘員Dは、ある日の戦闘中、お約束を破りヒーローたちに立ち向かっていく。しかし、力の差は歴然としており、戦闘員Dはあえなく吹き飛ばされてしまう。だが、彼は諦めることなく、人間になりすまし、戦隊たちの基地へと潜入し、戦い続けるのだ。

このユニークな設定の元ネタは、当然「ニチアサ」と呼ばれる戦隊ヒーロー番組である。毎週、お約束通りに怪人たちが非道を繰り返してはヒーローたちに退治されていくことを繰り返すこれらの番組は、常に正義の側が勝つ。怪人側のドラマが描かれる作品も多いが、基本的には勧善懲悪の物語であり、正義のヒーローがカッコよく悪を倒す姿を見せることに主眼が置かれる。

本作はそれを逆手にとり、やられ役にすぎない戦闘員の悲哀と反骨精神から物語が始まる。どうして、自分たちばかりがいつもやられないといけないのか、たまには反撃したっていいじゃないかと、ある意味「悪役としての役割」を逸脱するところから、物語がスタートすることに大きな特徴がある。

(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会

■「悪役はやられるために存在する」のか?

物語には敵役が必要だ。主人公と敵対し、追い詰めることが役割だが、決して最終的に勝ってはいけない。なぜなら、敵役は主人公の物語を盛り上げるために存在するからだ。

物語上では、戦闘員Dは「世界征服」が自分たちの存在意義だというが、物語を作る側と楽しむ側にとっては、彼らが本当に世界征服されたら困る。視聴者は、悪が倒されるところを見たいわけだし、物語の作者もそんな視聴者の思いに応えるために物語を書いているのだから。

やらせの戦いに赴く戦闘員の一人が言う。「俺たちがいるから大戦隊が引き立ち、観客が盛り上がる。負けることが決まっていても全うするんだ、怪人役の役割を!」と。これは、物語に敵役が必要な理由を、これ以上なくストレートにわかりやすく表現している。

しかしどうして、常に勝者と敗者がはっきりと決められているのか。そんなのは不公平ではないか。こんな役割を一方的に押し付けている戦隊側にどんな「正義」があるというのか。戦闘員Dはそんな疑問を持ってヒーローたちにぶつかっていくのだ。

そんな戦闘員Dに向かってヒーローはぬけぬけとこう言うのだ。「ここはお前たちの舞台じゃないんだ。黙ってやられていればいい。空気を読め、立場を弁えろ。俺たちが正義だ」と。

(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会

■悪役だって応援されればうれしい!

ヒーローはこうも言う。「何千何万という人間がお前の敗北に期待してる。四肢が飛散し、無惨に散っていく様を今か今かと待ち望んでいる」。

このセリフだけ抜き出すと、とてもグロテスクな欲望のはけ口としてヒーローが存在しているように思える。実際、それは一面の真実ではあるだろう。誰だって爽快に悪が倒されれば気持ちいいと感じる。それは否定できない人間の性質だと思う。

しかし、子どものときは誰もが一度は、やられてしまう悪役に肩入れした経験があるのではないだろうか。
戦闘員Dを応援する小さい子どもがいる。その声援に「悪い気がしなかった」と戦闘員Dは言う。子どもに応援されたらうれしいという、当たり前の感情を持つ存在としては彼は描かれているのだ。

「どうして怪人たちはいつもやられてしまうの?」と、子どものときは誰もが疑問に思ったことがあるはずだ。その疑問は、成長して社会を知るにつれて失われていくだろう。「悪は倒されなければならないものなんだ」と学んでしまうのだ。

本作でヒーローに何の疑いもなく声援をおくる大人たちは、悪が倒されることに何の疑問も抱かず、ヒーローたちの活躍にカタルシスを求めている。そのカタルシスのために“犠牲になっている存在がいる”と、この作品は問いかけているのだ。

正義の物語を描くためには敵役の存在が不可欠だ。しかし、その役割を押し付けることの残酷さ、不公平さをこの作品は見事に暴き立てている。「普段、あなたは自分が気持ちよくなるために、だれかを悪役にしていないか」。『戦隊大失格』は、そんなことを問いかけてくる作品だ。


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(C)春場ねぎ・講談社/「戦隊大失格」製作委員会
《杉本穂高》
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